written by nao
『昨日、第三新京都市にも、遂に初雪が降りました。専門家の話に因りますと、セカンドインパクトによってずれた地軸も年々以前の地軸の角度に戻ってきているそうです。今年は例年と比べて寒波が強く、初雪が拝める事となったのですが、残念ながら本州はこれから春らしい陽気に恵まれ……』
……眠い……。
あの夜から、10時間後。霧島マナは憂鬱な気分で朝を迎えていた。朝のニュースも耳に入らず、苺ジャムを塗っただけのトーストをかじる。いつもはちゃ
んと朝食を作る彼女も、さすがに今日は作る気にはなれなかった。
何で今朝はこうもだるいのだろう。その原因は、彼女からすればじつに馬鹿馬鹿しいものだった。
事件がネルフによって解決した後、無傷だったトライデント隊員たちは隊長時田によって有り難くない説教を受ける羽目となった。
曰く、トライデント始まって以来の大失態。時田はトライデントが任務に失敗して、ネルフが捕縛を行ったのが気に食わないらしい。
最初から共同戦線のはずなのに……面子がそんなに大事なのだろうか? 確かに9人の負傷者は出たが、目標は捕縛ができたのだ。任務で負傷者が
出るのは、戦闘を行う以上仕方がないし、それでいいとマナは思うのだ。
結局、時田の説教が終わってアパートに着いたのは、事件が終わって4時間後だった。
おまけに今日事務の業務が朝からあるのだ。マナは事務の仕事が苦手である。
「はぁ」
朝からため息が出てしまう霧島マナであった。
TOKYO REAPER
2.ヒューマノイド
昨晩の事件終了から約18時間後、特務機関ネルフ甲種機動隊、碇シンジは、第三新東京市の北西エリア、十時の方向―――10区に位置する、対妖捕縛部
隊トライデントの本部の来客室で、お茶を濁していた。
彼は自分までここに呼ばれた理由が分からなかった。彼は甲種機動隊に所属している。上層部のネルフ本部から命令したり、仕事を決めるのはミサトだ。
いつもは決まった仕事を彼女が持ってくるだけ。シンジは普段、ただの中学生にすぎない。トライデント本部には、去年の夏に一度だけ来た経験があったが、こ
んな風に来客室に呼ばれたのは初めてだ。
「で……、お話しというのは?」
シンジの隣に腰掛けている、葛城ミサトが今日の用件を尋ねた。
目の前のソファーに腰掛けているのは、トライデント隊長時田シロウと、冬月コウゾウ長官である。
冬月長官はトライデントとネルフの橋渡し的な存在だ。シンジの今の立場があるのは、彼のおかげによる所も多い。彼はシンジの尊敬する、数少ない人間のひ
とりだった。
その彼が、少し言いづらそうに質問に答えた。
「……前々から、上がっていたことだが、トライデントとネルフの連携について、政府から通達があった」
それは、誰もが予想していた事であった。トライデントとネルフの連携は以前からうまくいっていない。大きな問題はないものの、両者の間に摩擦はいくらで
もあった。
「それは、どのようなものですか?」
ミサトが冬月に質問する。
時田はなにか納得していない表情をしていた。どうやらどんな通達か、もう知っているようだ。
「トライデント隊員一名の、ネルフ甲種機動隊への出向命令だ」
「な!?」
思わず声を上げたのは、この場で唯一部外者を装っていたシンジだった。
「出向って、そちらの隊員さんと僕が、一緒に仕事をするって―――」
「その通りだ」
「そんな!? 無理ですよ。僕が嫌われているの知っているでしょう?」
シンジのチカラは、トライデント隊員達から恐れられていた。別にシンジは、怖がらせようなどとは思っていない。できる限り友好的に接してきたのだが、そ
の普通の態度と人外の強さとのギャップが、却って恐怖心を生んでしまっていたのだ。
この話が冗談でないのは、冬月の真面目な顔を見ればわかることだった。
シンジはミサトを振り返る。自分が声を上げる中、ミサトは黙ったままだった。その表情からは、今何を考えているのかはわからないが、頭の良い女性である
ことは知っている。彼女
はきっと、こうなることを予想していたのだろう。
「まあ待て、シンジ君」
冬月はそう言ってミサトを見る。
「葛城君。君が以前提出したプラン。アレはアレでよかった。問題は残ったが、互いの力量は理解できたはずだ。隊員の訓
練にもなった」
「ありがとうございます」
そう言われても、ミサトは素直には喜べない。"残った問題"があまりにも大きいからだ。
「だが、そう、ここまで酷くなっているとは、知らなかった……。時田君、トライデントとネルフは共同戦線の筈ではなかったのかね?」
時田は、ミサトを見て言いづらそうな振りをした。
「申し訳ございません。ですが」
「何だ?」
「はい。元々は、妖の捕縛は我々トライデントの仕事の筈です。隊員もプライドを持って職務に臨んでいます」
時田は堂々と言った。シンジの能力は必要ないと、言ったも同然だった。
冬月は、呆れた顔で時田を見た。
隊長が、これではどうしようもないな。これがなくなれば、いい人物になるのだが……。
冬月からみれば、彼はまだ若い。トライデントの隊長に推したのは冬月だったが、些か早すぎた、とも思えた。
しかし、当の時田としては、あたりまえのことを言ったに過ぎない。彼は妖によって肉親を失っていた。妖を憎んでいた。普段、冷静で仕事に私情を持ち
込まない彼だが、妖の事となると熱くなってしまう。
昨晩、マナたちに説教をしたのも、自分の育てたトライデントが妖の力を借りた事が、気に入らなかったからだった。
「シンジ君は、どう思うかね?」
冬月は妖であるシンジにも意見を求めた。人に嫌われる事が多いシンジだが、反面人を惹きつけるものがあった。ミサトもそうであるが、冬月もどこかシン
ジの将来に期待していた。
聞かれたのなら答えないわけにもいかない。溜め息を一つ吐き、シンジははっきりと答える。
「確かに僕らの本来の任務は、妖の捕縛ではありません。だから、僕は、無理やりそちらの仕事に手を出すつもりもないです。ですけど、今回の目標はAT
フィールドを所持している、という情報がありました。彼らに対抗するには、『ハウンド』の特殊装備か、同じATフィールドが必要です」
『ハウンド』とは、委員会の持つ、世界で最初に創られた対妖戦闘部隊だ。その実績は、トライデントとは比べ物にならない。『ハウンド』はATフィールド
を破
る装備を持ち、今でも世界で活動を続けている。
「その通り。つまりATフィールドがまだ出てくる可能性がある以上、互いの協力が必要だということだ。今のままではいかん」
冬月が言ったのは、まったくその通りだった。今のまま、通常の妖をトライデント、ATフィールド持ちをネルフで、という訳にはいかないのだ。どちらかの
部隊
の対応が遅れた場合、大変な事になってしまう。
「期間は、四月から六月の三ヶ月間とする。異存はないね」
「……どうなっても知りませんからね」
シンジはソファーに、大きくもたれ掛かって、大きく息を吐いた。ぼそっと言った言葉は小さすぎて、おそらく隣にいるミサトにしか聞こえなかっただろう。
ミサトと時田は沈黙をもって答えた。
「出向させる隊員は、これから選抜をする。連絡は以上だ」
こうして、トライデントとネルフ、つまりは人間と妖の相互理解のための通達は下った。
この出向によって、妖と人間の関係が良くなることを願う、と冬月は締めくくった。
***
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
時計が午後3時の時報を打つ。
「やっと、終わったぁ」
事務の勤務時間がようやく終わって、マナは大きく伸びをした。
もう、マナちゃん今日はなんにもしませーん、と一度デスクに突っ伏して、うし、と声をかけて身体を立たせる。疲れた目を擦りながら、ロッカールームへ向
かう。
帰りに、ムサシのお見舞いに寄ろうと決めていたことも、もう頭にはなかった。彼にそれを伝えたとき、電話越しに喜んでいた声も、セピア色に色褪せてい
く。
「おつかれさまでーす」
ロッカールームでは、他にも何人か女性がいた。
あたりまえだが、女性の隊員は少ない。そして、そのほとんどが事務官だ。
マナはセカンドインパクトの孤児が多い養成学校の出なので、彼女たちとは、付き合いがなかった。
「そういえば今日、誰かお客さんが来てるみたいね」
彼女たちの一人が言った。どこにでもあるような世間話だろう。ぼーっとしながら着替えていると、自然と話を聞く羽目になる。
「ああ、あの子よ。ネルフのアヤカシ」
昨日までは、その意味が分からなくて、気にもしなかったマナだが、今日はその意味が分かった。ネルフの甲種が何人いるのか知らないが、きっと昨日会った
男の子の事を言っているのだ。
「あたし、まだ信じられないんだけどさ。……それってホントなの?」
「本当よ。ほら、昨日の事件。あれだって、あの子が解決したらしいわよ」
「嘘っ、トライデントじゃなくて!?」
「ばか。声が大きい」
もう着替え終わっていた二人組は、マナの事をちらっと窺って、そそくさとロッカールームを出て行った。
気なんか使わなくたっていいのに、とマナは思う。そっか、でも、あの子、来てるんだ。
昨日の、少年のちらっと見せた笑顔が思い浮かんだ。一瞬の脳裏を過ぎったのは違う光景だったのだが、それはすぐに消えてなくなる。
同時に思い出した。そういえば、お礼を言っていなかった。
(また、会えたら、お礼言わなくちゃね)
ロッカーを閉めて、リュックを背負う。ロッカールームから出ても、人は誰もいなかった。まだ新しさがどことなく残る廊下を真っ直ぐ行けば、広いロビーに
出る。
職員用受付に挨拶をして、玄関を出る。
玄関を出ると、グラウンドがある。大きなグラウンドだ。
今の時間は訓練をしている隊員はいなかった。
突然、強い風が吹いて、マナは立ち止まる。手で目を覆うと、すぐに砂埃がマナの身体を吹き抜ける。
春一番の季節である。
「あ……」
疲労で無心だったマナの心が、活動を再開する。
目の前の赤茶色のグラウンドには、あの少年が見えた。
***
「ミサトさんは知ってたんですか?」
来客室を出て、エレベーターに二人で乗り込んでから、シンジはミサトに尋ねていた。その問いかけに特に意味はない。知っていなかったとしても、彼女はこ
うなることを予想していたに違いない。
「そうゆう話はあったけど、まさか本当にやるなんてね。また、シンジ君には迷惑かけちゃうわね」
ミサトは、苦笑いと共に答えた。
「いいですけど、僕は。ネルフの方は大丈夫なんですか?」
「私たちの部署には、大きな機密なんかないから、委員会も許したみたいね」
ポーン。
アラームが鳴ってエレベーターが一階に止まった。降りて、廊下を歩く。ミサトは小声で話し掛けた。
「冬月長官の事だから、心配はないと思うけど、一応、機密とかは気を付けておいて」
さて、と言って、今度は普通に話し掛けた。ミサトの顔はさっきよりは和らいでいる。
「私これから仕事で行くとこあるけど、送ってこっか?」
「あ、いいです。保健部に寄ってきますから」
シンジの言う保健部とは、昨日、フルドが運ばれたネルフの妖保護施設の事だ。ネルフの誇る最新医療機関、妖保健部は、そこにある。
「……お見舞い?」
「ええ」
「どっちの?」
その問いに、シンジは答えない。答える必要はないからだ。
心なしか、シンジの表情は優れない。その表情は、何かを覚悟したような表情にも、ミサトには見える。嫌な予感がした。
「……万が一の時は、僕がやります」
「やめなさい。確かにあなたの能力は凄いけど、万能じゃあないのよ。あなたの保護者として、あなたの体に危険が掛かる以上、許可はできない
わ」
シンジの目を見てミサトは意識的に優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。そんな事にはならない。彼女の『エヴァ』を信じましょう」
気休めだが、シンジは、気持ちが楽になるのを感じた。同時に、自分に情けなさを感じる。いつもミサトに助けられる自分が、子供に思えるからだ。
二人は、建物から外に出た。
ミサトは車のキーをポケットから取り出す。ペンギンのマスコットをあしらったキーホルダーが、しゃらん、と金属音を奏でた。
「それじゃ、細かい事決まったら連絡するわ。明後日の試験、がんばってね」
「はい。じゃあ」
シンジは、ミサトと別れて保健部へ向かう。
第三新東京市は、13の区画で分けられている。
中心エリアが0区、あとは時計と同じだ。0区を中心として、北は12区、東は3区、南は6区、西は9区、
である。
トライデントの本部は、10区。保健部も同じ10区にあった。これは、妖を保護している施設から、妖が逃亡をした場合、直ちに捕縛するためだった。だ
が、今までそんなことは一度も起きていない。
グラウンドを歩いていると、突然強い風が吹きつける。まだ、少し冷たさの残る春風だ。
同時に誰かの声が、風に乗って聞こえた。
「あの、すみません」
若い女性の声だった。だが、自分が話し掛けられている筈がない。トライデントでは、自分は憎悪か恐怖の存在でしかないからだ。
振り向かず、そのまま歩く。考えるのはこれからのこと。トライデントからの出向の話と、そしてそれよりも大事な、昨日捕縛したエヴァタイプ。
だが、その女性は追いかけてきているようだった。
足音が近づく。シンジの聴覚は、知らず内にもそれを認識する。
(もしかして、僕を?)
何か忘れ物をしたっけ、とか考えながら振り向く。
そこには、自分と同じ年頃の少女が、少し疲れた顔で微笑んでいた。
***
ミサトは駐車場で一際目立つ愛車に乗り込むと、携帯電話を取り出した。
電話帳のメモリーの一番上。あいうえお順だ。その人物にミサトは、電話を掛ける。
プルルルル、ガチャ。
電話はすぐにネルフのシークレット回線に繋がった。少しのタイムロスの後に、相手の声が聞こえた。
「仕事中よミサト」
『もしもし』もなしに、声の主は冷たく言った。
「仕事の話よ。いまからシンジ君がそっちに行くと思うけど、実験なんかするんじゃないわよ、赤木博士」
「わかってるわよ、貴女。私を何だと思っているの」
電話の相手は、ネルフの妖部門の第一人者である、赤木リツコであった。ミサトの古くからの親友でもある。
「また彼女のお見舞い、か……」
リツコが溜め息を吐くように言うのが、電話越しにも聞こえた。
「まぁね、たった一人の幼馴染だもの」
「心配ね……、シンジ君の方よ?」
「ええ。わかってるわ」
リツコも同じことを考えている。ミサトはその事実に別段驚くことはなく、話題を切り替えた。
「それで、昨日のコはどうだったの?」
「……ダメね。本当に悔しいけれど、今の私たちの技術じゃあ……」
「死ぬの?」
「冗談言ってもらっちゃ困るわ。そっちの心配は要らない」
リツコはぴしゃり、と言い切った。
「そう……。なんとかならないの?」
「投薬された薬の量が多すぎるわ、免疫ができてしまってる。あとは……、そう、今こっちに向かってるシンジ君くらいしか……」
「―――だめよ。今シンジ君にダウンされちゃ、変わりはいないのよ」
『彼女』を助ける事も大切だが、今のシンジに無理をさせるわけにはいかなかった。
シンジには、無理をさせるわけにはいかない理由があるのだ。
リツコは無言だった。彼女もそれは分かっているのだろう。
今の甲種機動部隊は、危うい位置にあるのだから。
「……まだ、始めるわけにはいかないのよ」
引き締まった声で、ミサトは言い加えた。
彼女は、いくつかシンジに嘘をついている。彼女は今回の通達を知っていたのだ。
それから3分後、リツコと会話して自分のやるべき事を再確認したミサトは、彼女との通話を切ると、キーを差し込んで自動車のエンジンを起動させた。
ガソリン車特有の豪快なマフラー音がうなりを上げた。
エンジンが動き出す。だがまだだ。まだ、今は。ステアリングを握る拳に力が入る。
しかし、物語は動き出そうとしていることを、ミサトは心のどこかで感じ取っていた。
***
「この間は、ありがとうございました」
目の前の少女は、その言葉と共に突然頭を下げた。
そんな事を突然言われても、何がなんだか全く分からなかった。
呆けた顔を元に戻して必死に記憶を探すが、女の子にお礼を言われるような事をした覚えは見つからない。いったいなんで。今の状況はなんなのか。
「あ、突然すいませんでした。でも、お礼言わなくちゃって、思って」
「あの、ごめん。えーと……」
「……覚えて、ない?」
上目遣いでシンジを見上げる少女。
身長差はそれほどないはずなのに、何故だか自分が見下ろす感じになってしまう。
(あれ?)
その姿には、どこか見覚えがあった。そう昨日、見たはずだ。
一枚の写真のように、少女の顔がパッと思い出された。
「あっ、あのときの?」
「分かりました? よかったぁ」
「ごめん。でもヘルメット被ってたし、それに君みたいな子が隊員やってたなんて、思ってなかったから」
「ひっどぉ〜い。これでも成績はいいのに」
だが、シンジは益々分からなくなった。
シンジの外見は、人間そのものである。だから妖だと知らない人に避けられるような事はない。ヒューマノイドとか、人間の書いた小説ではそう呼ばれる存在
だ。人間の形をした、人間でないモノ。
だが、目の前の少女はシンジが妖であることは知っているはずである。ましてや、人間から見たら化け物のような、その自分の能力を、その目で見たはずなの
だ。
なのに……、だというのに、少女の目には恐怖の色はない。
シンジに向けられた目は、汚い心のない、澄んだ目に見えた。
「どうしたの?」
少女がそう言ってシンジの顔を覗き込んでくる。
近づいた少女から女の子の匂いを意識した。
ミサトとは違う匂いだった。
シンジの鼻にはきついと感じる、香水の匂いでもなければ、人間特有の女性の匂いでもない。なんだかよくわからない。けれど不快でない。
「な、な、なんでもないよ。ははは」
アップのなった少女の顔から、逃げるように後ろに下がった。
なんだか恥ずかしくなったのだ。
口からは、乾いた笑いがこぼれる。
「私は、今年からトライデントに配属された、霧島マナです。よろしくお願いしますね」
「はぁ、こちらこそ、碇シンジです」
つい自己紹介などしてしまった。
完全に少女のペースだな、と思う。
だが、確かめなければならないことがあった。それをシンジはしなければいけない、と感じた。後から告白するには言いにくい事だ。そして後にする事は、悪
い方に繋がる。
もう会わないかもしれない。なら……、いやだからこそ、思い切って聞いた。
「……でも、なんで? 僕が人間じゃないの知ってるでしょ?」
シンジは、極めて明るい口調で言った。
拒絶されるかもしれないという不安は隠れて見えないだろう。
「え、知ってますけど……この間はっきり見たし」
だが、彼女のペースは崩れなかった。何を言っているんだ、という顔でシンジを見る少女に、ちっとも恐怖の色は見当たらない。
そのなんでもないような答えに、自分を否定された気がする。妖である自分を、舐めているのか。
「そう、僕のチカラ見ただろう? 怖くはないの?」
「キミは怖がらせたいの?」
彼女のペースは変わらない。
「はぁ……」
「あの、どうしたの?」
かなわないな、と息を吐いてシンジは降参した。
冷静になって考えれば、自分が人間に嫌われたがっているようにみえて、バカバカしくなった。
もう考えるのはやめた。どうせ、もうこの少女とは会わないだろう。
「……なんでもないよ」
「変わってるんですね。やっぱり妖だから?」
「っ! それは君だろう?」
「なにが、です?」
「あー、もう」
***
机の上にある資料を手にとって、冬月は、冷めたお茶を口に運んだ。
(……不味いな)
何事も、適温と言うものがある。
お茶でも、コーヒーでも、そして、物事でも、だ。
解りやすく言えば、『タイミング』だ。
冬月は、今回の出向のタイミングに疑問をもっていた。
だが、それは確信には至らない。冬月はその疑問を自分の内だけに留める。
今は、自分の仕事をするだけだ。
彼と時田は、別の部屋で、出向させる隊員を検討していた。
時田が、説明をしている。
「選抜は、新人から行おうかと思っております」
「ふむ……、知らなかったな、シンジ君と同年代の子もいたのか」
冬月の取った資料には、若い、まだ子供の資料もあった。
「今年の一月に施設から引き上げた新人です」
「若すぎるのではないかね」
「施設の方も厳しいようです。隊員も不足しています。能力は、合格ラインに達していたので……」
セカンドインパクト、その二次災害で、多くの人間が死んだ。孤児も増えた。政府は孤児を保護したが、予算は、減ってきていた。早く独り立ちさせたいの
だ。そのために、労働基準法などと言っていられなくなってきている。
「厳しい世の中になったものだな」
「日本(ここ)は別に戦争しているわけではないのですから、他所の国に比べれば」
「いや……、子供たちにとっては変わらんだろう」
戦争か、と時田は思う。これが妖との戦争であるというのならば、何故妖と共闘するのだろう。昔、日本と米国が戦争していた時代には、自分のような葛藤を
する者がいたのだろうか。
……いたに違いない。愚かしいことだな、と時田は自らを嘲笑う。自然と告白の言葉が口から出る。
「私は、もう先入観は拭えません。彼が味方でも、妖である限り、信用ができません。新人ならば、と思ったのですが」
「悲しいな……若い者に、託すしかないか」
「しかし、うまくいくのでしょうか? その年代の子達は、自分中心に者を考える所があります」
冬月は席を立って、窓から外を見た。
時田にはまだ知らせていない事実があった。
この計画は仕組まれたものである。政府ではなく、委員会、いやネルフによって。
その目的がなんであるか、冬月はまだ掴んでいなかったが。
……国連に存在する『特異遺伝因子保持生物管理委員会』。その実行組織である特務機関ネルフ。同じように『委員会』の下部組織であり、妖捕縛部隊として
活動している『ハウンド』も怪しいものだが、『ハウンド』は所詮一部隊。ネルフは最近になって政界にも顔を出し始めている。
(いったい何を考えているのだ?)
ふと、グラウンドにシンジが居るのが見えた。
少女と何か話しをしている。それが普通の子供同士の会話に見えて、冬月は少し驚いた。
(……ふむ)
冬月は時田に振り向いて、もう一度、選抜者のリストを見る。
「シンジ君が妖だと言う事を、この子は知っているのかね?」
そう言って、一枚の資料を机に置いて時田に見せた。
「はい。昨日の実戦では、唯一現場で意識がありましたから……。しかしその隊員は目の前で彼のチカラを見ています。出向は無理ではないでしょう
か」
冬月は面白そうに微笑んだ。顎に自然と手が伸び、掌で少しだけ残る髭の感触を探る。
それが事実なら、彼女はシンジのチカラを見ても、先入観なしでシンジと普通にしゃべっている事になる。
それは、誰にでもできることではない。
冬月は、仕組まれているだろう少年の未来に、かすかな希望を見た気がした。
机の上には、霧島マナの資料がある。
***
ここはいつ来ても冷たい感じがする、と碇シンジは思った。
第三東京市10区。トライデント本部からバスで四本先のそこは、明らかに郊外に位置している。元々10区は工場が多く殺伐としているが、ここには建物が
ない代わりに、緑がある。それだけが救いだ。
何にとっての救いなのかはシンジにはわからなかったが、建物に入った途端、その救いは発散される。
無機質な、これでもかと言うくらいにクリーンな廊下を歩く。その裏で、とてもクリーンでない実験が行われていることをシンジは知っていた。人間たちと妖
のため、と聞かされているそれを、シンジはどうしても納得できなかった。
では何故自分は人間たちに協力しているのだろう。
昨日のフルドの台詞が、まるで鼓膜が震えたそのまま録音したように、頭の中で再生される。それは、何度も投げかけられてきた問いだった。
何故自分は、人間たちに協力するのか。
別に彼らのやっていることを正しいと思っているからではない。ただそう、誰もやらないからするだけだ。人間たちにとって、やらなければならないこと。そ
れは妖に対する警察と呼べるだろう。人間たちがやらないから、僕がする。
(違う……)
シンジはたった今考えていたその自分の思考に、明確に反論が出来た。
―――僕は"あの惨劇"を二度と繰り返したくないのだ。この仕事は、人間にやらせてはいけない。
自分の思考に結論の着いた所で、目的地に到着した。目の前には金属製の厳重な扉がある。その隣のスリットに、ポケットから出したカードを通す。
「入るよ、アスカ」
重苦しい音を響かせて、扉が開く。
***
一週間後。
霧島マナの姿は、5区にある第三新東京市最大の繁華街にあった。
ここには何でも揃っていた。
モノであふれて、オトは鳴り止まない。ヒカリは途切れる事がなくて、ヒトばかり。幼い頃から、我慢の生活をしてきたマナだから、ここがあまり好きではな
かった。
「ここよね」
この街のシンボル。駅前のモアイ像の前でマナは立ち止まった。
待ち合わせは午前10時である。
(ちょっと早かったかな?)
訓練学校の支給品の、ごつい腕時計をみると、あと10分ほど時間があった。
マナは、グリーンのスーツのようなものを着ている。訓練学校の制服だ。どこかの高校の制服に見えないこともないが、少し浮いている感は拭えない。
今日は平日だが、学生は春休みである。このモアイ像の前にも、待ち合わせをしている人がたくさんいる。みんな、きまって流行の服装をしている。
マナだって女の子である。おしゃれに興味がないわけではない。この制服でこんな場所で、自分が浮いているのだって知っていた。
(今日だけだ。きっと)
目の前にたくさんいる人々を、なんとなくに見ながら、緊張で高鳴る心臓を落ち着けようと、マナはこれからの仕事場に思いを巡らせた。
"トライデント部隊員、霧島マナ。特務機関ネルフ、甲種機動隊への出向を命じる"
「私が!? ネルフに出向ですか? ……あ、え? す、すいません」
マナはそれを聞いたとき、隊長の前だというのに、思わず声を上げてしまった。
まだ入隊したばかりなのに、これは左遷というやつなのだろうか。マナは不安な気持ちになった。
時田は、ゴホンと咳をしてから、話し始めた。
「この出向の目的は、お互いの相互理解を深める事だ。だから、どうしても駄目な場合は拒否をする事もできる。余計に仲をこじらせても意味がないからな」
「質問を、よろしいですか?」
「なんだ?」
「なぜ、私なのですか?」
「冬月長官が、君なら、と言っていた」
冬月……その名前は知っていたが、話などはした事がなかった。どうして彼は自分を推したのだろう。
「どうする? 出向は四月一日から、三ヶ月間だ。やれるか?」
今まで学校で習った妖は、野生動物を凶悪にしたようなイメージだった。しかし、あの事件がマナの認識を変えていた。
人語を喋ったあのアヤカシ、そしてシンジ。彼らには、知性があった。人間と同じように感情があった。
ここで、訓練施設と同じように訓練に明け暮れるよりは、ずっと楽しい気がする。
冬月長官の事は、確かに気になった。
だがマナは小さな時から好奇心の強い少女である。
そして彼女は決心した。
「霧島マナ。了解しました」
***
チリリリリン……チリリリン……。
電話のベルが、うるさくなり響いている。ベットで安眠を貪っていた少年は、その古臭いベル音で覚醒した。
「ふぁい、碇です」
「起きなさい! バカ!」
その声量の大きさに驚いて、シンジは受話器を落としそうになった。
電話の主の声が大きかったことだけが理由ではない。シンジは人間よりずっと五感が優れている。起きたばかりで聴覚の制御をするのを忘れていたのだ。
耳がキンキンする。シンジにはまるで花火が耳元で爆発したように聞こえたその大声の主は、離した電話の受話器の向こうから、今も何か喋っている。
シンジは、鼓膜の震えを止めて、受話器を耳に運んだ。
その間、僅か3秒。
「ちょっと、聞いてるの?」
「う、うん。おはよう」
「そっちはもう陽が高いんじゃない? 全くあなたは――」
シンジは窓のほうを見て、カーテンの方を見た。差し込む光は、春の陽気を帯びて暖かい。
(今日は、何か用事があったような……)
壁に掛けてある、丸いアナログ時計を見たとたん、シンジは思い出した。
「聞いたわよ先輩から。昨日またあなた―――」
「あっ!」
「なによ?」
「ごめんマヤ。急用が出来た」
「あ、ちょっと待ちな―――」
プツン、ツー……ツー……。
***
「遅いなぁ」
マナの細い手首に括られた、ごつい腕時計の長針は1と2の間にあった。
ネルフもトライデントも軍隊ではない。独立した治安組織である。だが、時間を守るってのは大切なんじゃないだろうかと、マナは思う。人としてどうなの
か。いや……、彼は人ではなかったわ。では生物としてどうなのか。
緊張も、もうなくなっていた。
そのとき。
フワリ、と風が吹いたような気がした。
「遅くなってすいません」
「わっぁぁぁ!」
「す、すみません。脅かすつもりはなかったんですが」
突然、目の前に男の子が現れたのだ。誰でも驚く。
目の前にいたのは、この間、自己紹介した碇シンジという妖だった。
「い、いえ。おはようございます。霧島マナです。本日よりネルフに出向になりました。お世話になります」
「はぁ」
シンジは、ジーパンにトレーナーという、ラフな格好をしている。
どこからも見ても、人間だよなぁ、とマナは思う。
「おはようございます―――って。えっ、あれ? ……あの、ほんとに、君が?」
目をまんまるにしてシンジが言う。
「はい。二回目ですけど改めて。よろしくお願いしますね」
「うん……まあ。……とりあえず、案内しますから。ついて来てください」
そう言って歩き出す少年の背中を、マナは新たな職場の期待に胸を高鳴らせ、小走りに追いかけた。
***
……こういうことか、ミサトさん。
やられた。まさか、女の子なんて。
歩きながらシンジは、先日のミサトを思い出した。
『出向に来る人、決まったわよん。―――え? どんな人かって、シンちゃんも喜ぶと思うわ、きっと』
茶化すような、ミサトの声。
嫌な予感はしたのだ。彼女が甘い声で、『シンちゃん』なんて呼ぶ時は、いい事なんてない。
しかも、よりにもよって子のことは。
「あの。碇三尉? これからどこに?」
早足でシンジの隣に並んで、マナが訊ねてくる。
「ああ。う〜んと、ネルフの甲種機動隊の本部です。一応、そういう事になってるんですけど」
「ですけど?」
「きっと驚くと思うよ」
「え?」
「それから、階級で呼ぶのは止めよう。敬語もいいや」
「はい。あ、ええと……キミ」
「碇、碇シンジ」
「碇君?」
ぶっきらぼうに、シンジは言う。こういうのには慣れていないのだ。
2人は、繁華街を歩いた。2人とも黙ったままだった。
シンジはスルスルと進んでいく。このあたりの地理を知らないマナは、ついて行くのに必死に見える。とにかく人が多いのだ。速度を少し、落としてやると、
マナは小走りでシンジの隣に並んだ。
「人、多いね」
「春休みだからね。まあ、この辺は休みじゃなくてもいつも人は多いけど」
やがて裏路地に入ると人の数もまばらになり、商店街に町並みは姿を変える。その一角にコンクリートで出来た、三階建ての古ぼけた建物が見えてきた。
「ここだよ。あと、住所とか、電話番号とかは非公開だから、内緒にしといてね」
マナは頷く。
シンジは建物の端にある鉄製の階段を上っていった。階段の横から見えた建物の外装は薄汚れていたが、階段にはサビはない。一階にはシャッターが降りてい
る。そこには玄関はなかった。
「玄関は上。一階は、ガレージになってるんだ」
マナの視線に気づいてシンジは説明する。
階段を上ると扉があった。
ガチャ、とドアを空けて中に入ると、大きな玄関があった。シンジは白いスニーカーを脱いで、
ス
リッパを履く。
マナがげんかんに入るのを確認すると、シンジは戸を締めて鍵を掛けた。
***
「失礼しまーす」
「そこのスリッパ使って、こっちに来て」
「はい」
寂しい玄関だと、マナは思った。シンジと自分の脱いだ靴しかそこには存在しなかったからだ。しかし、玄関はそのわりに大きく、スリッパの数はいくつか
あったので、他の隊員は出掛けているだけかもしれない。スリッパのほとんどは真新しかったことは気になる
が、仕事場だから
そんなものだろう。
玄関から真っ直ぐに廊下は伸びている。途中の右手に階段がある。
シンジは階段の向かい、左にあるドアを引いて空けた。
カチャ、と音を立ててドアが開く。
ここまで来て、マナに本日二度目の緊張がやってきた。もしかしたら、この扉の向うには、違う世界が広がっていて、あんな妖や、こんな妖がいるのかも
しれない。此処が"甲種"機動隊であることなど、忘れていた。
「本日付けで、甲種機動隊に出向になりました、霧島マナです」
マナは勇気を出して、お辞儀をしながら大きな声で挨拶をした。
第一印象は大事なのだ。
だが、誰からも返事は返ってこない。
「なに突っ立ってるのさ、どうぞ」
頭を上げて部屋を見たが、そこにはシンジしかいなかった。
「え……? あ、はい」
そこは大きな二十畳程あるフローリングの部屋だった。スチール製のデスクが六つくっつけて並べられていた。大きなソファー、本棚やら、ロッカーやら
で、ごちゃごちゃしている。壁にはハンガーがあったが、掛けられているのは、赤いマフラーだけだった。奥には小さなキッチンが見える。
全体としてモノは多かったが、それらは綺麗に片付いていた。ただ一つのデスクを除いて。
「ここが、本部なの?」
地下に秘密基地があって、そこには凄く偉そうな、ネルフの指令がいて、『ふん・・・・・・出撃』、とか、いきなり命令されるかもしれないと思っていた、
想像力の豊かなマナは、拍子抜けする。
「驚くって言ったろ?」
「確かに驚いたけど、あまりに普通で」
「普通だよ。えっと、トイレは廊下の突き当りを左。それから君は……ココ。この机を使ってね」
マナは言われた机を見た。まだ、使われていないような綺麗な机だった。隣の机はただ一つ片付いていない机だ。マナの机が余計に綺麗に見えた。
「この間届いた君の荷物はその木箱の中だよ。……でも何をそんなにもってきたの?」
マナの机の横には、厳重に封のされた、大きな木箱が二つ置いてあった。
「あ、捕縛用の装備」
よいしょ、と木箱を持ち上げて、マナは封を切った。中からは、拳銃とか弾薬とか物騒なものが、次々と出てくる。その中にはショットガンなんかもあった。
シンジが驚いて声を上げる。
「な、なんで、こんなに物騒なものばっか持って来るんだよ」
「へ、必要だって聞いたんだけど」
マナは隊員たち人気があった。
マナが出向になった事が広まると、隊員たちはマナのところへやってきた。やめろと忠告する者、今生の別れ
と餞別をくれる者、いつ根を上げて帰ってくるか賭けをする者。その中のひとりに、『装備は一式持っていけよ、物騒なところだから』と言われたのだ。『生き
て帰って来れたらいいな』とも言われた。もちろん、それは冗談だが、マナは少し本気にしていた。
「必要じゃないよ。ここじゃあ」
「でも、仕事に要るんじゃないの?」
「あのさ、何を勘違いしてるか知らないけどね、ここはトライデントの仕事に比べればずっと安全なんだ。そんな物騒なもの使わないよ」
「うん。じゃあ、じゃあ閉まっちゃお」
マナは安心していた。本当ならマナだって使いたくないのだ。
***
シンジは、木箱に銃を片付けるマナを見て考えていた。
どう見たって、まだ子供だ。兵士をやるなんて年齢ではない。それはシンジも同様だったが、妖である自分の事とは比べるだけ無駄だろう。そう、マナのよう
な年頃の女の子ならば、先ほど歩いた繁華街に溢れているあの若者たちのような生活が普通だろう。
久しぶりに知らぬ他人と関わることになったシンジは、自然に他人に興味をもった。疑問は自然と口をついて出ていた。
「なんで、そんなに若いのにトライデントにいるの?」
「あ、えーと……」
「ごめん。いや話しにくいことだったらいいんだ、別に」
「私、孤児で、軍の施設に拾われて育ったの。それで、そのまま」
そういってマナははにかむように笑った。
答えにくい、失礼なことを聞いたはずなのに、シンジには罪悪感は沸いてこなかった。それはこの目の前の少女の笑顔が、無理のない本当の笑顔だったからだ
ろう。
不幸を不幸と思わないのだろうか。なぜそうやって笑えるのか。聞きたいことは裡から渦のように出てきたが、シンジがそれを訊ねることはなかった。その質
問を遮る音をシンジの聴覚が捉えたからだった。
車のマフラー音がして、近くで止まる。シンジはゆっくり窓際へと向かう。
「やっと来た」
シンジは窓を開けたときに、青いスポーツカーがバックして一階のガレージに入っていくのが見えた。
葛城ミサトの愛車、アルピーヌ・ルノーA310である。
「ここの方?」
「んー、まあ。正確には違うんだけど、そんなもんかな」
カンカンカン。
それはミサトが階段を上って来る音だ。
彼女はハイヒールを履くので、ここの階段を上るときにカンカン音がするのだ。
シンジは玄関の方へ歩いていった。
「おっじゃましま〜す」
「ちょっとミサトさん、どういうことですか?」
「ありっ? 話さなかったっけ?」
葛城ミサトはしれっ、と答えた。彼女には前からこうやって勝手に話を進めて知らん振りする癖がある。
はぁ、とシンジは溜め息を一つ。
「……まぁいいですけど。そういうことは先に言っといて下さいよ」
「でも、シンちゃんの希望通りでよかったじゃない、あの子」
ミサトがシンジの向こうに目配せする。シンジも軽く首を回し、視線だけでマナを見る。瞬間ドキッとする。廊下から顔を覗かせていたマナと目が合ったの
だ。はっ、としてミサトを見れば、なんだかにやにやとしている。
シンジはなんだか苛々してきた。
「ミサトさん。でたらめ言わないでくださいよ」
「まぁまぁ。ごめんね霧島さん。今そっち行くから」
ミサトも靴を脱いで、部屋に入った。
それを小走りに追いかける。ほうっておくと、また余計な事を言いかねない。
***
マナの目の前に現れた人物は、とても優しそうな人に見えた。
それに、とても綺麗だとマナは思った。とくに彼女の長くて美しい黒髪は、マナが憧れても手に入れることができないものである。
「私は葛城ミサト。シンジ君の保護者をやってるわ。よろしくね、霧島マナさん」
「この人はね。一応、ネルフの人なんだ」
「一応は余計よ。シンちゃん」
シンジをぎろっと睨むミサト。
マナはそれには気づかずに、この人は人間なんだ、と思った。
では、他の甲種はどこにいるのだろう?
「霧島マナです。よろしくお願いします。……あの、他の方は?」
マナが知っている甲種は碇シンジしかいない。
「ああ……、今はね、シンジ君しかいないのよ。本当はあと二人いるんだけどね」
あと二人……それしかいないのか、とマナは思った。そういえば甲種は数が少ないと誰かが言っていた気がする。
「あ、霧島さんの歓迎会やらなきゃ、ねぇシンちゃん昼御飯作って」
時計の針は十一時を少し回っていた。
「ミサトさんが食べたいだけでしょ」
そう言いながらも、シンジは冷蔵庫を覗きに言った。
その間に、マナはミサトに尋ねてみた。
「葛城さん。あの、私、嫌われてるんでしょうか?」
「そんなことないわ。人間の女の子と話すのなんて経験無いから、戸惑ってるだけよ」
「はぁ……」
そういうものか、と思う。こっちだって、あまり経験はないわ、とマナは思った。
「それから私の事はミサトでいいわ。シンジ君のことはシンちゃんって呼
んであげてね。とっても喜ぶと思うわよ」
『シンちゃん』―――その言葉に反応したのか、シンジがこちらを振り向いた。地獄耳だ。
「何、吹き込んでるんですかッ! ミサトさん」
「あら〜。女の子の話は盗み聞きするもんじゃないわよ」
「へぇ、その歳で女の子ですか?」
「な、なんですってぇ〜!」
突然始まった口喧嘩に、マナはしばらく唖然としていた。
新鮮だった。施設の仲間たちとじゃれるのとはまた違う。これもまた別の形の家族だろうか。
人間はネットワークを構築する生き物だ。それが家族や、仲間、友達である。その法則に、人間でないシンジは関係なく入り込んでいる。
「この間だって、下着とか洋服とか全部、家の洗濯機に放り込んでおいたくせに、自分の家で洗ってくださいよ」
「いいじゃないそれくらい」
「女の子がそういうことさせますか? 恥じらいってもんがないんだから」
「あら? しんちゃぁん、あたしに恥らって欲しいの?」
やがてマナはけらけらと笑い出してしまっていた。面白い職場だ。マナは自分の選んだ未来を、とてもよかったと思った。
「これからよろしくね、シンちゃん。ミサトさん」
「やめてよ。霧島さんまで」
「嬉しいくせに」
「あのねぇ〜」
この空間に自分も飛び込みたい。このネットワークに入りたい。マナはすでに心を開いていた。きっとすでに自分はこの人たちが好きなのだ。
「私もマナって呼んでよ、シンちゃん」
「霧島さん……」
「マナだって」
「……」
「マ・ナ」
頬を膨らませて睨む。きっとそれが効いたのだろう。シンジは台所に歩きながら、背中を向けてぼそっと言った。
「食器出しておいてください。ミサトさんと……それからマナも」
「うん」
マナは満天の笑顔で頷いた。
to be cantinued
|