・第1景

 漣(さざなみ)の音。
 これを耳障りに感じた先ほどは、どうかしていたのだろうと、少年は思う。
 これほどまでに、安らぐ、この音を。

 赤い海。全ての人が溶け込んだ海。血の臭いのする海。
 その向こうに見える、よく知った(本当に知っているんだろうか?)少女の末期の笑顔。
 あるいは、嘲笑っているのかも知れない。
 あれほどに悩みのない世界。それを拒絶した、彼を。

 これは僕の意思だ。
 エヴァに乗ることで掴み取った、14才の少年の現実だ。
 これが僕の意思だ。
 そう思うと、肩の荷が下りたような爽快感が全身を満たした。すこし、胸が寒くなったが。

 これが、今までよく分からなかった、僕の生きる世界なんだ。

 何が見えるのかは分からない。
 世界の在り様なんて分かりはしない。
 しかし、どう動けばいいのかは、分かった気がする。
 好きにして良いのだ。
 その許可を、誰かに貰えた気がする。
 この街に来たばかりの頃、病院で少女に言われた言葉が、ようやっと届いた心地だ。

 (じゃ、好きにすれば)
 そうするよ。
 大の字に寝転んで、空を見上げる。
 彼女の流した血が、空を横切っている。

 「アスカ」
 右へ首を向けて、隣に横たわる少女を見遣る。
 すっかりやつれた少女は、(当然だろう、2度も殺されかけたばかりなのだ)やはりぼんやりと、空を眺めている。
 「おなか空かない?食べ物探しにいこうよ」

 「あんたさぁ…人を殺そうとしといて、言うことはそれだけ?」
 少女は口だけを動かして応えた。
 「うん、それだけ」
 少年は口元に笑みを浮かべて答え、身を起こす。「文句は後で聞くよ」
 「あんたってホントに…」
 口の片端を歪めて、左隣の少年の顔を見る。
 「つまんない男ね」

 「よっ…痛ぅ……と…」
 「……」
 「あんたさぁ、ちょっとは手を貸そうとか、思わないわけ?怪我人よ」
 「でもアスカは立つだろ。ちゃんとさ」
 「なにそれ、人を何だと思ってんのよ」
 「14才の女の子」
 「……つまんないわよ」
 「……」
 「ほら、いいから肩貸しなさいよ」
 「ん」
 「右は嫌」
 「え」
 「右はイヤ。左にしなさい」
 「なんだよ、それ。…ホラ」
 「…にしても冴えない景色ねぇ…あんたみたい。どこよ、ここ」
 「赤いんだからアスカによく似合ってるよ。聞かれても分かるわけないよ」
 「あたしが冴えないって言いたいわけ?ほんと役立たずの頭してるじゃない」
 「料理ならアスカより役に立つよ。コンロとか使えると良いけど」
 「どこにコンロがあんのよ…しっかり探しなさいよ。おなか一杯になったら、あんたの首絞めてやるんだから」
 「うわ、誘わなきゃ良かった」
 「なに喜んでるのよ、変態」
 「…そんな風に見える?」
 「見えるから言ってんのよ、バカ。後悔したって遅いわよ」
 「はいはい」
 「……生意気」
 「痛!爪を立てるなよ!」
 「これくらい何よ。わっ…ちゃんと歩きなさいよ!」
 「アスカが悪戯を止めれば言われなくたって…」
 「ふぅん…そんなこと言ってると、もう馬鹿にしてやんないからね」
 「…変だよ、その日本語」
 「変じゃないわよ。変なのはあんた。あたしの病室でなに言ったか忘れたの?」
 「………忘れたよ」
 「」
 「」
 「」
 ・
 ・


 相手の存在が偽りでないか確かめるかのごとく、他愛のない言葉を重ねてゆく。
 ただそこに居たから
 生きるために便利だから
 理由は無いに等しい。
 決して心が重なることはないが、他人の存在が、疎ましくも快かった。

 漣(さざなみ)の音。
 砂浜に足跡が並んで続いてゆく。
 赤い水面の上には…ただ地球と月と太陽があるのみ。




・第2景

 夕暮れのように薄明るい光の中、二人の人影が見える。
 傍らには、どこからか飛ばされてきたのだろう、ティラノサウルスを大きく描いた壁が、斜めにかしいで地面に刺さっている。
 その陰に庇護されるようにして、アスカは両手の下にシンジの首筋の律動を感じていた。
 ゆっくりと、落ち着いた拍動。
 もう少し、それが感じられなくなる程度に力をこめる。
 眠っている少年と、その首に手を掛ける少女。お互いに表情はない。
 ふと、少年が薄く目を開ける。
 自分の上に乗る少女の顔を認めると、彼は少し眉根を寄せて、しかし開けた口から言葉は出ない。

 シンジの目が、横に流れるようにして力を失う。
 それを認めたアスカは、首から手を離して立ち上がり、数歩離れたところに腰をおろす。
 遠く、漣の音。

 心地好い暖かさを額に感じて、シンジは目を開けた。誰だろう。
 目の前に、自分を見詰める先ほどと同じアスカの顔。その後ろにティラノサウルス。
 「…殺されかけた感想はどう?」
 その首には、赤く、少年の手形。
 「気持ちよかった…アスカって首絞めるのも上手なんだ」
 「……ばーか」
 ごつん、とシンジの後頭部に地面。そろえたアスカの両膝で支えられていた頭を、その間に落としこまれたのだ。
 「あーあ、つまんないことに力使っちゃったな…」
 三角座りに座りなおして、上体を膝に預ける。
 「シンジ。おなか空いた」
 「…僕もだよ」

 結局食べ物はおろか、まともな世界の痕跡すら見つからなかったのだ。
 「爆心地に近すぎるんだ。みんなどっかへ吹っ飛んじゃってる。…何してるの?アスカ」
 プラグスーツの少女は、コンクリートの破片で手元の地面を掘っている。
 答えがないので、シンジも真似をして掘っくり返してみる。
 アスカはバケツ一杯分も掘り返すと、動きを止めた。
 「駄目ね。生き物が見つからない」
 「食べるの?」
 「飼うの?あんたは」
 「そんな」
 「非常時には重要な栄養源って話よ。もっとも、おなか壊さなきゃ僥倖ってやつでしょうけど」
 生返事を返して、シンジは前を眺める。
 「焦るとか、うろたえるとか、ないわけ?このままじゃ餓死しちゃうわよ」
 変に落ち着いたシンジの態度が、癇に障ったのだろう。
 怖がらせようと、意地の悪い笑みが浮かんでいる。
 「う〜ん、あんまり」
 「その根拠は何よ。…さっぱりだわ、あんたって」
 空腹は耐えがたいが、行き倒れることはあまり心配していなかった。
 「あたしなんか、食べ物のあるところまでどれだけ歩けばいいかなんて考えたら、気が遠くなるわ」
 少女は憮然としてあさっての方角を眺める。
 
 ふと、不安がよぎる。
 「そっか、誰かに会えるってことと、生きるってことは別なんだ」
 「はぁ?……頭平気?」
 酸欠で気絶したばかりだが、張本人心配されるのも妙だ。
 「もう一度みんなに会いたいって思ったんだ。だからここに居る。でも、自分が生きることまでは人任せに出来ないんだ…」
 自分が生きる手段を確保するのは、自己責任なのだ。
 立ち上がる。
 「歩こう、アスカ」
 「ちょっと?」
 「歩けるうちに歩いとこうよ。他のみんなにも会いたい」
 手をとられて、アスカも腰を上げる。慌てて振り払い、窮屈な笑い顔。
 「…ようやく目が覚めたわけ?闇雲に歩いたって、危ないだけよ?」
 「綾波が落ちてるのがあっちだから、反対に行けばいいと思う。川か水道管を見つけなきゃ」
 「落ちてるって…あれってやっぱりファーストなの?」
 アスカは今まで気にならなかったようだ。その神経に驚く。
 「多分」
 「…ったく、何がどうなってるわけ?きっちり説明しなさいよ」
 「僕にもよく分からないけど…何から話せばいいかな?」
 「始めッからよ!あたしが居ない間に起きたこと、全部!!」
 そのくらいの時間は、きっとあるだろう。
 動くことの出来ないティラノサウルスだけが、その場に残された。




・第3景

 そこが緑豊かな山脈だったのか、住宅地だったのか、あるいは兵装施設だったのかは分からない。
 茶褐色の山並みを縫って、ごうごうと流れる水の音。
 それだけがこの世界を満たしている。
 木々を失った山が、胃袋を小さくして、水を吐き出したのか。
 荒々しい濁流が、2人の訪問者が立つ足元を崩してゆく。

 「何よ……これ」
 アスカが目を丸くする。
 彼女は今、プラグスーツの上から白いYシャツを羽織っている。
 「……とかく、この世は謎だらけ。だね」
 けだし名言だと、Tシャツ姿のシンジは感じ入ったように呟く。
 額に入れて心の書斎に飾っておこう。

 目の前を流れる大河が逆流しているように見える。
 河を埋め尽くすものが、これを遡上しているのだ。
 数える気にもなれないそれは、
 「……人魚?」
 と言えなくもない。
 「こんなのを人魚だなんて絶対に嫌っ!」
 アスカが猛然と異議を申し立てる。
 「うん。僕もちょっと……半魚、がいいかな」

 目の前を行く体長1メートル程のそれらは、確かに魚類であることを主張している。
 えらを持ち、瞼のない魚眼を持ち、水中を尾鰭をくねらせて泳いでゆく。
 魚類なのだが、どこかしらが人なのだ。
 そのいい加減さは、たしかに人魚とは程遠い。
 胸鰭が鱗の密生する腕になってクロールをしているもの。
 胴体が人の上半身に変わって川底に沈みかけているもの。
 人の足が生えて川底を蹴って跳ねるもの。
 これだけでも不気味だが、必ずヒト2人分以上のパーツを備えている。
 中には5本の足を器用に絡めて、大きな尾鰭を作っているものもいる。
 (この世界で、最初に見る生き物が、これなの?)
 お互いに同じ感想を抱いていることは間違いないと確信できた。
 魚たちは、ひとつとして同じ形態をしていない。
 (なんなの、これ)
 アスカはシャツの衿を左手で掴み合わせて、考える。
 片や、シンジは川岸を歩く。流れの向きから、流れの穏やかなところへとかがみ込む。
 両手で水をすくって、口に含んだ。
 顔をしかめて、脇へ吐き出す。
 「……飲めそう?」
 「しょっぱくもないし、血の味もしない。だけど土の味が酷いよ」
 細かい味までは分からない、と両手を広げて見せる。
 流れは速い、そして、上流にあるのが兵装施設なら?
 「せめて、沸かしてから飲みたいけど」
 「今は無理ね」
 器も、火種も、燃やすものもないのだ。
 「水があるだけありがたいわ。干物になっちゃいそうよ」
 けれども、汗を流したい、と騒いで仕方のなかった彼女が流れに浸かったのは、かなり後のことだった。
 「あの魚と同じ水に浸かってさ、よく平気よね、あんた」
 とは、水浴びをする前に、アスカがシンジに言った言葉だ。(勿論、シンジはきつく目隠しをされた)
 もう飲んでるんだから関係ないと思うシンジだが、口にするのはやめておいた。
 相手は女の子。肌も心もデリケートなんだ。多分。

 焚き火に寄り合う影がある。
 寄り添う、とは程遠い距離があるが、炎の暖かさは、この常夏の国でかつて体験したことがないほど心地好かった。
 この世界が、未だ夜明けを迎えていないせいも、あるのかもしれない。
 「この魚ってさ、ヒトよね」
 「やっぱり、そうなのかな?」
 「うん、ほら、あの泳いでる連中」
 「橙に光ってる」
 「魚の中に、いくつものATフィールドが入り込んで、寄り集まってるのよ。きっと、単独では体を維持しきれないんだわ」
 「でもなんで魚なのかな」
 「生き物なら何でも、って訳でもないでしょうね。ヒトの発生過程の初期は魚に似るっていうでしょ。それを辿ることで、あるいは生まれ直そうとしてるのかもね」
 夢でも見てるのかな。あそこの人たちは。
 「…僕らもああだったのかな?あの砂浜までは」
 「うヱぇ、考えたくない…」
 「なんか、変だよね。美味しいけど」
 「二重の意味で共食いってやつね」
 二人の前には一匹の半魚が美味しそうな煙を立てている。
 足の3本生えたやつを二人掛かりで取り押さえ、石のナイフで捌いたのだ。

 河のよどみに流れ着いた石を割って、削り合わせた磨製石器。
 アスカの監督のもと、シンジが作った。
 出来の良かったものを片手に、よどみに迷い込む半魚を待つ。
 途中、腕が8本ある半魚にシンジが投げ飛ばされた。
 落ちたのが陸だったから良かったが、河ならアウトだったろう。
 引きずり込まれても嫌なので、足の生えたやつを狙う。
 首と尾を深く傷つけると、驚くほど大量のLCLが溢れ出て大人しくなった。
 液体は地面の高低差に逆らって、川に向かって流れたようだったが、みな、溢れるそばから砂に染み込んでいった。
 他の魚に入り込むのか、地面に吸われてしまうのかは分からない。
 ヒト化している部分の皮を剥ぐ。
 皮下脂肪を集めて、これにアスカのプラグスーツに残った電気を火種にして、なんとか火をつけた。
 大腿骨を焼き串にして、バーベキュー。
 どの部分も、ほろほろとした白身だった。
 二人の腹を満たすには充分な量が確保できた。

 「これから、どうする?」
 お腹が一杯になると、アスカが聞いた。
 焚き火の炎もちろちろと、今はわずかに残るのみだ。
 「今日はもう寝ようよ。明日、魚がどこへ行くか見に行こう。……中にヒトが居るなら、出てくるかもしれない」
 寝そべって薄明るい星空を見上げる。
 少女の血は、未だ空を染め分けている。
 「……そうね」
 「こういう生活をしてるってことを知らせたら、」
 その赤に手をかざしながら、軽く笑みを浮かべた。
 「きっと最初に戻ってくるのはケンスケだね」
 アスカには随分久しぶりの名前だ。
 「あいつ、こういうの好みなわけ?」
 「うん。前、空き地でキャンプしてた」
 「ふーん、そうなんだ。…でもきっとダメよ、缶詰生活者じゃない?ひょっとして」
 「あ…よく分かるね」
 「あったり前でしょ?本物志向を気取ってても、そこまでストイックな奴、そうは居ないわよ。魚捕ってくるほど暇なことしないしね」
 「軍隊は」という主語を言うまでには、少し間があった。

 「そうなんだ…」
 「シンジ?」
 「なに」
 「あんた、よくアレ食べる気になったわね」
 触れなくて良い話題だ。
 「僕はアスカが何も言わなかったほうが不思議だよ」
 どうしても触れておきたい話題だ。
 「あたしは……いいのよ。迷うことじゃないわ。それに、いまさらだしね」
 少女は睨み付けるような声で答える。
 半魚を食べよう、とは二人とも口にしなかった。
 ただ、シンジは石を拾った。
 アスカはシンジの加工手順を正した。
 無言の合意を行動で確認した。
 「シンジは怖かった?」
 「別に」
 「……ふぅん」
 「殺して、腑分けて、そりゃ嫌だったけど…やっぱり、疲れてるのかも知れない。今までで一番正しいことだって、思ったんだ」
 ふん。「ぶん投げられて自棄になってただけじゃないの?」
 「……そうかも知れない」
 「あれ捌くの、シンジの仕事ね」
 「僕に?」
 「とーぜんじゃない。自分の嫌なこと、あたしにさせようってわけ?」
 「じゃ僕に押し付けるのは構わないの?」
 「あたしは嫌じゃないからいいのよ」
 ふーん。なるほど?
 ごうごうと、川の音が耳を覆い、心地好く眠りを誘う。
 考えるのが面倒になって、「僕がやるよ」とシンジは答えた。
 「アスカが居てくれて良かった」
 「何よ?気持ち悪いわね」
 「僕一人じゃあれ、捕まえられなかったよ」
 「あたしなら楽勝だったわよ」
 そうだね。という言葉を、魚が川面に跳ねる音が邪魔した。
 2〜3メートル。イルカほどだ。
 大きくなっている。
 「ま、あたしも食べるんだし、手伝うわよ」
 暫しの沈黙を、アスカが締めくくった。

 「もう少し河から離れよう。寝てる間に流されたら大変だよ」
 「何言ってんの。こっちは土砂が堆積してくるほうよ」
 「でもさ…」
 「はいはい、万が一ってこともあるかもね。ホントの万が一」

 
 アスカは足を洗う水の冷たさで目を覚ました。
 シンジは足を掴む半魚の手のぬめりで目を覚ました。
 二人が寝ている間に、流れは大きく変わっていた。悲鳴。

 「だから言ったんだ…」
 「あんたホント好かれるわね。知り合い?」
 ああいう悪質な挨拶をするのは誰だろうと考えて、やめた。該当者複数。

 みんなそういう遊び方をするんだよな、僕で。
 けれど、今は不快ではない。むしろ、心待ちにしている。
 どういう風にやり返すか、考えておかなくちゃ。

 「……なによ」
 「きっとアスカがいい参考になるな、て思って」
 「はぁ?何の話?……なんかむかつく」

 服の土を払って、少年が立ち上がる。少女が歩き出す。
 焚き火に土を被せて出来たキャンプの跡は、川のうねりが程なく押し流した。



・第4景

 日の昇らない薄明の空が、木々の梢に透けて見える。
 天から地上を圧し潰すかのような星も、少女の血も、ここでは折り重なる植物たちの背景になる。

 大河の流れの上流。
 爆心地の外輪山。
 幾つかの流れが湧き出す山肌の、その窪地には、湖を囲んで雑多な草木が森を作っている。
 杉やクヌギなどの喬木、ツツジやベリー類の潅木、這性のコニファーや、竹、熱帯産の観葉樹まで。
 植物はその性質を問わずどれも大きく育ってい、草も苔もたっぷりと水を含んではちきれんばかりだ。
 地面と葉、葉と葉の間に交わされる息吹が、この土地を包み込んでいる。

 塵を巻く荒れた風も、ここでは濃厚な大気をうっそりと揺らすのみで、森全体が蠢いている気配がする。
 鼻から胸へ息を吸い込むと、自分もこの森の一部に溶けてゆくようで。
 (いのちが溢れてる…)
 第三新東京市に来る前、一度だけ行ったクラシックコンサートの、短い調弦の時間を思い出す。
 雑然と、けれども決して不快でない音が、呼吸できるほどに満ちている。
 (…お風呂みたいだ)
 瑞々しい樹皮を保つ巨木の根方にもたれて、シンジは空を垣間見ていた目を、前の地上に向けた。

 湖に流れ込むせせらぎに、アスカが足をひたして遊んでいる。

 湖はそれほど広くもない。
 芦ノ湖の半分ほどだろうか。
 そこに一本の支流と無数のせせらぎが流れ込んで、三本の流れが出てゆき、これが大河になる。

 ふたりは砂と瓦礫の中を流れる川を遡ってここに辿り着いた。
 濃厚な密林の向こうにこの湖を見つけたのが、3日前の夕刻。
 湖の周りをぐるりと巡って様子を伺い、巨大なブナの根方に腰を下ろしたのが半日前。

 −駄目ね。こいつら、姿を変える気は無いみたい
 −残念だな…ついて来れば、誰か戻ってくる人に会えるかと思ったけど
 −でも、じゃ こいつらは何をしに出てきたのかしら

 答えは出なかった。
 ただ、遡上してくる半魚はここ数日で体長を大きく変じており、3メートル程にまでなっていた。
 2人は苦労して一匹を捕獲すると、見よう見まねで、その肉をスモークにした。
 乾燥させずに使うので不安だったが、一応桜の木を使って仕上げた苦心の品が出来上がった。

 湖面はぼんやりと薄暗い。想像も出来ないが、それは数え切れないほどの半魚を飲み込んでいるはずだ。

 「引っ張り込まれても、助けには行かれないからね」
 いつまでも水から離れない様子が無性に可笑しくなって、木陰から声をかける。
 浅瀬に立ち上がって、アスカが振り返る。
 「そうかしら」
 「そうだよ」
 「あたしが連れてかれたら、あんた一人っきりになるのに?」
 シンジは少し驚いたようだった。
 アスカの口元は、小さく笑みの形に歪んでいる。
 すぐ傍で、半魚が跳ねる音がした。
 「…ま、今度はエヴァもないし、ね。状況は違うけど」
 返事は聞かないことにしたわ と、言外の響きがあった。
 シンジは、アスカの言う「前回」は何時のことだろうと思いながら暗い空を見上げる。
 思い出そうとしたが上手くいかなかった。
 そのままブナの根にもたれ、沈み込む。
 アスカは手近なミズナラの若枝を折ると、その先の皮を剥いで芯を石で軽く潰し、湖に顔を映す。
 この森に入ってから手に入れた、簡単な歯ブラシだ。
 −世界がこんなになっても、歯磨かなきゃ口が臭くなるなんて、なんか可笑しいわよね。

 一昨日の会話だ。
 雑談らしきものは、その日はこれきりだったから、記憶違いはないはずだ。
 ここ数日のシニカルなアスカの表情は、そういえば加持さんに似てるんだなと、シンジは思った。
 −つまりさ、細菌とか微生物は相変わらず生きてるって訳よ。
 −当たり前に聞こえるけど。
 −あんたね…首の上についてるのは何よ、それ。
 −…植物はこうして生えてるし、半魚だっていたじゃないか。
 −アレは例外にしときなさいよね。森の中なのに虫が居ない。鳥も見かけてないわ。
 −どこか遠くになら居るのかもしれない。
 −確かに結論はまだ出せないわ。でも系統樹のどこまでがアレで溶けちゃったのかは、結構大事なことよ?
 とりあえず、飲み水から赤痢にでも罹ろうもんなら、打つ手なしなんだから。
 アスカのその発言に、シンジは心の底がざわめくのを感じた。
 彼女は少年より、確実に多くのものを考えている。それは確かだ。
 ここ数日で、2人はコンフォート17で共有したものとそっくりな空気を感じることが増えてきた。
 歯を磨く音。何気の無い会話。眠りに落ちる前の息遣い。
 穏やかな生活の音は、少しずつ2人の神経を鎮めてゆく。
 同時に、このままでは居られないだろうという思いを、一つずつ降り積もらせていた。

 水辺にしゃがみこむ華奢な背中をシンジは見る。
 ああ、ずっとプラグスーツじゃ過ごし辛いだろうな、と思って、シンジは自分の思考に苦笑した。
 アスカは、そんなことは後回しだと思っていることだろう。
 とにかく衣服を調達することに決めて、シンジは遠くの山を見詰めた。

 不意に、湖面に光が差す。
 子供たちは空を仰ぐ。
 ダークトーンの天頂に、うっすらと太陽が現れつつあった。

 異様に透明度の高い湖水の奥で、幾千、幾万の魚影が輝く。
 まるで飛んでいるようだ。
 光条が増すにつれてうねりを上げて速度を増すそれらは、やがて空間に一つの大きな渦を描き出した。
 「凄い」
 異様な光景に、心を奪われた。

 「川が…」
 アスカの呟きに対岸を見やると、3方の河が沸き立っている。
 この祭りに遅れるものかと言う気迫。
 大量の半魚が湖に泳ぎ込む。
 その量と、一匹毎の体長が、加速度的に膨れ上がっていく。
 胸に不安が湧き上がる。
 何かが遠くから近づいて来る地鳴り。
 少女の足元を流れる川の水が、逆流をはじめている。
 「アスカァ!上がって!!」
 遅かった。
 叫ぶや、シンジの背後の森が爆発する。
 大量の水が森から噴き出し、湖へ押し寄せ、少年をもみくしゃにする。
 10メートルを優に越える半魚が頭のすぐ脇を飛んでゆく。
 巨木の陰で、枝に掴まっていなければ、シンジも同じように飛んでいただろう。
 (アスカ…)
 危険に振り返った強い眼差しを思い返すが、目に入るのは水ばかり。
 恐ろしかった。

 やがてのっそりと、おおきな、鯨程もある巨躯の持ち主が、森を割って下流から現れた。
 あれは多分、鯨というものと同じくらい大きいのだと思った。
 鯨を思い描こうとして、図鑑でしか見たことが無いのに気付く。
 脳裏に浮かんだのは第六使徒だ。
 (何でこんな時に!)
 向こう岸の川にも。
 腕の長いもの 足の太いもの 目の多いもの 口のように体中が裂けたもの 
 都合4体の巨大な半魚が、湖岸に現れていた。
 空の太陽を見上げて、哭き声を上げる。
 (魚ってこんな風に鳴くんだ)
 生臭かった。

 巨体が一斉に傾ぐ。
 湖中の渦に合流しようというのだ。
 (なんだよっ!それ!!)
 シンジは悲鳴をあげた。
 あの巨体が湖に身を投げたら岸はどうなるか。
 身震いをして目を見開く 祈る 何に?


 空を覆う波に飲まれて、シンジは押し流された。


 最後に見た巨大半魚の気持ちよさそうな円い目を思い出して、無性に腹が立った。
 それしか考えられなかった。


 木々の梢が落とす湖水が、雨のようだった。
 シンジは横倒しになった桜の根の下にYシャツを引っ掛けた赤白の背中を見つけて、
 それがしきりに噎(む)せながら息をしているのを見つけて、全身が軽くなるのを感じた。
 自分がどんな顔をして居るのか、よく判らない。
 「アスカ。」
 ほっとして声をかける。少女が振り向く。

 射殺すような視線が、返礼だった。




・第五景

 嘘のように世界は静かになった。
 満天の、降るような星空が頭上で瞬いていた。
 碇シンジは砂丘を一人で歩いていた。

 半魚はあれっきり。
 どこにも居なかった。
 あの中のLCLはどこへ行ってしまったのか。
 多分、ひとつになって、この空のどこかを泳いでいるのだろう。
 太陽に焦がれ、空を見上げたあれらには、それが相応しいと、シンジはそう結論づける事にした。
 彼はそれから、ずっと歩き続けていた。

 ただ前を向いて。前だけを向いて。ひたむきなその黒い目は、巡礼の信者を思わせる。
 何を考えているのか、その表情から読み取ることは出来ない。
 砂丘の先の、星を見ていた。

 自分がつけた足跡を思う。

 少女は火のように怒っていた。
 なにかとても酷いことを言われた。
 それはどうでもいい。

 砂丘に続く足跡を思う。

 どうでも良くは無い。この心は手酷く傷付けられた。
 けれども
 同じくらい酷いことを、彼は言った気がする。

 砂に続く足跡は、一筋。

 うそ寒い胸が何故重いのか。
 それを考えながら、ただ星を見ていた。
 自分の隣りには、今度は誰がいてくれるだろうか。


 <幕>











−・−
お付き合い頂いてありがとうございます。

はじめも述べましたが、私の中に住まいした”碇シンジ”という少年に、何らかの終わりを導く為に書き始めたものです。
私というバイアスをかけて彼が出した答えは、「勝手にする」という空虚で、彼にとっては清々しいものでした。
一応、劇場版のように色々あった後で、複雑に悩みこむなんて不可能だろうというのが基本にあります。放心した状態から、彼の図太い部分がでるだろうと。
勿論、その通り行動できる、といったものではありません。
ですので喧嘩別れというのは、結構自然な流れだと思うのですが…どうでしょう(笑)。

終わりは始まりでもあります。空想は自走していきます。
イラストで描いている「景色」シリーズと同じ世界で起きたこととして位置付けております。
私が趣味として遊び続けるための設定です。
あなたにとっても、愉しみの一片であれば幸いです。

2003年01月03日
同年06月27日加筆修正
doodle

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